戦國ストレイズ
□うたた寝
1ページ/1ページ
「おや?」
縁側で、柱に凭れ掛かる様にすやすやと寝入っているかさねを見つけ、信行は小さく声をあげる。
「ふふ、いくら気持ちのいい陽気とは言え、こんな所で寝ては風邪をひくよ」
信行は穏やかな微笑を浮かべて、己の羽織りをかさねにかける。
すっかり寝入っているかさねは起きる気配がない。
「あどけない寝顔だな…」
かさねの寝顔を見つめながら信行が呟いた。
普段の闊達な様子もほほえましいが、こんなおとなしくあどけない寝顔で寝入っている姿も何だか愛らしい。
「信行か」
「兄上?」
横柄な声に信行が振り向く。そこにはこの尾張那古野城主であり、己の実の兄でもある、織田上総介信長が立っていた。
「…その女、またこの様な所で寝入っておるのか」
呆れた様に信長が言った。信行は苦笑いを零す。
「この麗らかな陽気につられたんでしょう」
「陽気につられて、かような誰が通るかも知れん縁側で昼寝か。…無用心にも程がある」
信長のその言葉には信行も賛同だった。
やはりこんな場所で若い女子が寝こけるのは少々考える。
「…可哀相だけど、起こしますか」
「待て」
信行がかさねを起こそうとしたのを、信長が制す。信行は何事かと目を丸くして信長を見遣る。
「こうぬくぬくと寝顔を見せられると、悪戯したくなるな」
「い、悪戯…!?」
信行が驚いて声を上げる。
「あ、兄上!こ、このような寝込みに、そ、そのような不埒な…!相手は男を知らぬ生娘!ど、どうかお考え直しを…!」
「……何を考えておる信行」
真っ赤になって必死に意見する信行に、信長はしらけた視線を送る。
信行は、え?と信長を見つめる。
「……そういう意味では無いので…?」
「…このうつけ。ただ餓鬼の悪ふざけ程度の事をしようと思っただけだ」
「悪ふざけとは…?」
「これだ」
信行の問いに、信長は墨の入った硯と筆を、どこからか取り出した。
「まさか兄上…」
信長の行動の先を察して、信行は青くなる。
「始めは無難に髭から書くか」
(あ、兄上ー!!)
案の定かさねの顔に落書きする気満々の信長に、信行は突っ込む事が出来ず青い顔で見つめる。
妙な所で茶目っ気を見せる兄に、信行はその兄の行動を止められない己に歎く。
「ん…」
信長がかさねの顔に、筆を入れようとした時、かさねが微かに身じろぎして、信長の筆を持った手が止まる。
「信行さん…」
急にかさねに名を呼ばれ、信行は驚く。
起きたのかと、信行がかさねの顔を覗き込むが、かさねはすやすやと眠っている。
どうやら先程の事は寝言らしい。
「ふふふ…」
何の夢を見ているのか、かさねが嬉しそうに笑う。
信行は何だか照れ臭くなって頭に手を遣り、苦笑いを零す。
「一体どのような夢を見てるんでしょうかね…」
「…」
女子に寝言で名を呼ばれ、嬉しそうな寝顔を浮かべられて悪い気のする男などいないだろう。
嬉しそうに破顔する信行とは裏腹に、信長の眉間に、不愉快そうに皺が寄った。
「…飼い主であるおれを差し置いて、信行の名を呼ぶとはいい度胸だな」
明らかに苛々が垣間見える信長の言葉の刺に、信行は身を竦めた。
「…ん…殿様…」
「…」
己の名が呼ばれ、信長が微かに目を見開く。
「…兄上が夢の中に出て来られたんでしょうか」
「…そうだな」
信行の言葉に、信長が呟く。
「…うなされておるが」
「……」
兄の信長の名を寝言で呼んだ途端、かさねの顔が微かに歪み、寝苦しそうに唸っている。明らかに悪夢にうなされている。
信行はもうどう言っていいかわからず、信長に引き攣った視線を向ける。
「…あ、兄上…」
「くだらん…」
信長が興ざめしてかさねから離れようとした時、かさねの手が信長の着物の袖を掴んだ。
「…」
信長は立ち止まり、無言でかさねを見遣った。
「正宗…」
「……」
信長の眉がピクリと引き攣った。
信行がかさねの寝言に思わず噴き出した。
「ま、正宗とは…確かかさね殿の弟君でしたよね。まさか兄上を捕まえて…自分の弟の名を、よ、呼ぶなど…っ」
必死で笑いを堪えようと信行が腹に力を入れるが、それは全く意味を成さなかった。
笑いを堪えている信行を見て、信長の機嫌がみるみる悪化していく。
「虎徹…」
かさねが今度は信行の着物をきゅっ掴む。
信行は笑いを止めて固まる。
「…おまえはどうやら虎徹とやらだそうだな」
信長が、はんっ、と信行を鼻で嘲笑う。
信行は兄の冷たい視線に萎縮する。
「ですが、どうしますか、兄上。このままでは身動きが…」
「この女を起こすか、無理矢理引きはがせば良かろう」
信長はかさねの着物を掴んでいる手を引きはがそうと試みるが、かさねは信長の着物をしっかり掴んで放さなかった。
「…」
「…兄上、まだ午後の詮議まで時間がありますし、暫くかさね殿に付き合ってもいいんじゃありませんか?」
信行は人が良さそうな笑みを浮かべ、信長にそう提案する。信長は無言で寝ているかさねを見遣る。
「…フン」
信長は微かに鼻を鳴らして、かさねが寝ている隣に腕を組んで座り込んだ。
信行はそんな兄を見て微笑を零す。
なんだかんだ言いながら、やはり兄上は優しいな…。
「…何をにやにやして突っ立っておる」
信行の表情を見て、何やら不愉快そうに顔を顰める信長。
信行は信長の言葉に慌てて背筋を張る。
「すみません兄上っ…!」
信行も信長に習ってかさねの隣へと座る。
すやすや幸せそうに寝ている少女に、全く起きる気配はない。
それでも、着物を掴んだその小さな手は、しっかりと繋ぎ止められている。
「…こんな風に兄上とゆっくり話すのも随分久しぶりですね」
「…そうだったか?」
「兄上が父上の跡継ぎとなって当主となられてからは、こんな機会めっきり減りましたからね」
「…」
信長は何も言わずに目の前の園庭を見遣る。
「…そう思えば、この様な機会を与えてくれたかさね殿に感謝しなくてはなりませんね」
そう言って穏やかな微笑をかさねに向ける信行。
信長は横目で信行とかさねに視線を向ける。
「…信行、あまりこの女に情をかけるな。いつかはこの城を去る女だ」
「兄上はその様に己に言い聞かせておられるのですか?」
信長の目付きがいっきに険しくなって信行を睨み付けた。
「いつかは去っていく存在でも、それでも側にいる今は、一時でも触れ合いたいと思うのが人というものではありませんか?」
「…くだらん」
信長は信行の言葉に、一言だけそう返した。
「情をやれば、その分見返りが欲しくなるのが男だろう。…おまえは違うかも知れんがな」
信行は信長の言葉に目を丸くする。
「見返り…ですか?」
「だからおれはこの女に情などくれてやらん」
信長がかさねの髪に微かに触れる。
さらさらの短い黒髪は纏まりがなく、信長の手から零れ落ちる。
「…見返りなど返ってこんからな」
信長の言葉に信行は薄く微笑する。信長は何だと信行を見遣る。
「僕にはこのあどけない寝顔と、かさね殿のあの嬉しそうな笑顔だけで充分な見返りだと思いますけどね」
朗らかな笑顔でそう言ってのける弟を、信長は眉を潜めて見る。
相変わらず何処までも人が良くて欲のない奴だ。
だが。
「その程度で満足するなど、全くおめでたい奴だ」
信長の言葉に信行は顔を上げて信長を見つめる。
そこには珍しく愉快そうな笑みを刻んだ信長が居た。
「…おまえもおれもな」
男とは結局、女の笑顔一つでほだされる馬鹿で単純な生き物なのだと、信長は微かに心の中でそうぼやいた。
了