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□湯屋恋物語・後
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前編



玄関の引戸を引くと、鍵がかかっていた。合鍵はいつも持ち歩いているが、出かけているとわかっていて上がり込むつもりはない。
午前中のこの時間ならば、湯屋に誰かいるだろう。自転車を家の前庭に置き、銀時は湯屋へ向かった。
湯屋の正面扉が細く開いていた。平日なので、もちろん暖簾は出ていない。
扉の貼り紙に目を留めた。
半紙に達筆な字で『五月五日、菖蒲湯仕候』と書かれている。登勢の筆跡だ。
もうそんな時期か、と銀時は貼り紙を眺めた。登勢湯では冬至と節句に合わせて柚子湯と菖蒲湯を行っている。客からの評判はよく、銀時も気に入っている催しだ。毎年、当日は必ず帰ってきている。
カラカラと扉を開け、番台の前を通った。ちらりと女湯を覗いてみるが、人の気配はない。男湯の脱衣場に上がった。
脱衣場は清掃されたあとだった。浴室からブラシの音がする。浴室の扉が開いていたので、真っ直ぐに脱衣場を横切った。
浴室の入口で、ぎくりとして足を止める。
妙がブラシで床のタイルを磨いていた。
すらりと伸びた長い足が太腿まで見えていた。日頃見えないところの肌は、驚くほど透明な白だった。
思わず喉を鳴らすが、彼女は銀時に気づいていない。
スカートを腿まで捲り上げているせいで、少し屈めば下着が見えてしまいそうだ。思い至り、銀時は咄嗟に眼を反らした。
心臓が静かに、強く脈打つ。脱衣場の壁を見つめ、知らず瞬きを繰り返す。
女の身体など見慣れているはずだ。見るだけでなく、その熱に触れ、幾度となく抱いてきた。深いところまで知っている。なのに、まるで女を知らない少年のように動揺していた。
おそるおそる、視線を戻す。見てはいけないものを盗み見るように、そっと瞼を上げた。
妙はまだ銀時に背を向けていた。ブラシの音が男の気配を消しているようだった。
細い足は滑らかな線を描いて、華奢な足首まで伸びている。白い腿は、とてもやわらかそうだ。
―――ダメだ。
銀時は眉根を寄せた。彼女は登勢の娘だ。浮わついた気持ちで接していい女じゃない。
眉間の皺をゆるめ、息を吸った。
「妙」
声をかけると、彼女の手が止まった。振り向き、あ、と口が動く。
妙は身体ごとこちらを向いた。
「おはようございます」
「おう」
銀時はジーパンの裾を膝まで捲り、浴室に入った。まだ残る泡を避けながら行くと、妙がはっとしてブラシを置いた。
慌ててスカートの裾を下ろし、素早く皺をのばす。膝丈のフレアスカートが、ふわふわと揺れた。
妙は自分の顔が真っ赤になるのがわかった。熱を冷ますように片手で頬を抑え、うつむいた。はしたない姿を見られてしまった。隠れているはずの腿をまだ見られているような気がする。
頬から手を放し、スカートの上から足を押さえた。羞恥のあまり、顔を上げられない。
銀時が傍までやってきた。男の素足が視界に入る。ふいに初めて出会った日のことを思い出した。あのときも男は裸足だった。
「バァさんは?」
低い声が問う。妙の粗相など気にも留めていない声色に、いささか安堵する。
視線を上げると、眠そうな蒼眼が見下ろしていた。
「町内会の寄合で、出かけてます」
「あー、そう」
「お昼には戻りますよ」
もちろん待ってますよね、と目線で訴える。男は登勢に会うために帰って来たはずだ。
自分の心が本当に届いていたのだと、妙は嬉しくなった。
「家で待ってますか?」
鍵を渡そうと、スカートのポケットをまさぐる。あーいや、と呻く男の声がした。
銀時はぼりぼりと頭をかいた。
「することもねーし、ちょっくら手伝っていい?」
「はい?」
「掃除。久しぶりにやりたくなった」
嫌いじゃないんだよね、と男はにやりと笑んだ。


銀時がいつも裸足なのは、下駄を履くためだ。
しかし、裸足でいるために下駄を履くようになったのかもしれない。妙は想像した。湯屋の手伝いをするためには、常に裸足でいた方が便利なのを妙は知っている。
男の清掃はさすがに手慣れていた。ここ数ヶ月まともに手伝っていなかったとはいえ、妙よりは経験がある。嫌いじゃないと言ったことも嘘ではないようだった。
ふたりで、あっという間に浴室を磨き上げた。


「これ、本当にこんなふうに見えるんですか?」
男湯のパネル絵を見上げ、妙は訊ねた。銀時と並んで立つ。
「らしいな。俺も写真でしか見たことねーけど。逆さ富士だろ?精進湖の」
あぁ、そういえばこの人の大学はあの坂の上にあるんだった。
妙は男の横顔を見つめた。高台にある大学からは、晴れの日には壮麗な富士の山嶺が見えると聞いたことがある。
「お詳しいんですね」
「オヤジの受け売り」
あ、と銀時は声を上げ、妙を見た。
「辰五郎さんな」
銀時はまたパネル絵に視線を戻した。
「新婚旅行で行ったんだってさ」
「ああ、それで」
急に納得がいったように、妙は大きく頷く。銀時は真顔で妙を見つめた。
「だからお登勢さんがいるんですね」
―――気づいていたのだ、この娘は。
銀時は妙の漆黒の睫毛を見つめた。彼女は眼を細め、長い睫毛をわずかに揺らしている。口元はゆるやかに微笑んでいた。
清掃をして身体を動かしたあとなので、熱いのだろう。頬は桃のように色付いている。真っ直ぐに伸びた背中が、彼女を凛然とさせる。
綺麗な女だ、と思った。心の清艶さが、その姿に表れている。
銀時はまたパネルに目線を移した。
雄大な富士山が描かれている。手前には小さな湖があり、水面には逆さ富士が歪むことなく映されている。実際にある風景だ。
澄んだ湖の周りには自然が広がり、木や草花が生息している。パネルの右下にひっそりと描かれているものには、ほどんど気づかないだろう。
水蓮が一輪、ぽつんとあった。水蓮が咲くには不自然な場所にあり、大きさも遠近法としておかしい。小さすぎた。明らかに、作品の一部として描かれてはいない。
珊瑚色の花弁と黄色い花しべが窺えるが、花だとわかっても水蓮であると気づかない。ましてやそれが、登勢を指すものだなどと。
「なんでわかった?」
問うと、妙は薄く微笑んだ。
「私の部屋の箪笥に、これと同じ模様の着物があって。生地は紫なんだけど、―――ほら、」
妙は水蓮の傍の小さな文字を示した。
「辰五郎さんの署名も紫」
着物は結婚するとき、辰五郎がこしらえた。水蓮は登勢の誕生花だ。
遺作となったこの絵に、辰五郎は妻への慈愛を込めた。絵を描く辰五郎の傍にずっといた銀時と、贈られた登勢だけが知っている。
銀時は妙の髪をくしゃり、と撫でた。押さえつけるように乱暴に円を描くと、妙が目を丸くして見上げてきた。男はにやりと笑んだ。
「動いたら腹減ったわ。妙、中華そば食ったことある?」
「中華…?」
「商店街にできたんだけどさ、そばが縮れてんの。醤油汁で、メンマ入っててよ」
「あの、銀さん……」
「おまえメンマ知ってる?」
「ちょ、やめ……」
「今から食いに行くか」
調子に乗っていつまでも撫で回していたら、
「やめろ天パ!」
と細い足が跳んできた。
鋭い膝蹴りが鳩尾に突き刺さり、銀時は崩れ落ちた。
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