神隠しの森で

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気がつくと、見慣れた天井が眼前に広がっていた。
そして、ベッドの端に座って自分を見おろしている顔。
酔って、寝ぼけていても腹がたつほどいい男だ。


「……義美と沙英は?」
「店の前で別れました。カラオケに行くとか言ってましたけど、行きたかったですか?」
「ぜんぜん……」
「飲みすぎですよ。たいして飲めもしないくせに」
「誰のせいだと思ってる」
「まあ、俺のせいでしょうね」
「……みず」
「はいはい」


諒が立ちあがってキッチンへむかう。とはいえ、1Kとは名ばかりの狭いアパートだ。すぐにミネラルウォーターのペットボトルを持ってもどってきた。


「どうぞ」


身体を起こすと、キャップをはずしたボトルをわたされる。
一気に半分ほどを飲みほしてボトルを諒にかえすと、すぐまた横になる。とても姿勢を保っていられなかった。
そのまま、寝返りを打つふりをして身体ごと壁を向く。
こうしていれば、少なくとも顔を見ることも見られることもない。


「──もう、会わないって言った」
「無理ですよ」


聞き分けのない子供を宥めるような声で、しかし、諒はきっぱりと否定した。
きしり、と安いベッドが音をたててわずかに沈み、彼がまた腰をおろしたらしいことが、伝わってくる。


「無理でも、会わない」
「どうやって? サークルはともかく、大学は辞められないでしょう? まあ、俺は辞めてもいいですけど、高嶺先輩に弄ばれて捨てられたので辞めるって話すしかないですよ。いいですか?」
「弄んでなんか」
「あれが弄んだ以外のなんだと?」


諒の声はいつものように落ち着いていて、怒っているようには感じられない。
表面的には。


「オレは……」
「違いますか? 俺は何度もあなたに好きだと言いましたよね? ちゃんと恋人として付きあってほしいとも。あなたは一度だってまともに取りあってくれませんでしたけど。それでいて、平然と俺に抱かれて……挙句の果てに、一方的にもう会わない、ですよ? 同情票俺の総取りだと思うんですが?」


どこまでも穏やかに断罪する、声。
そうだ。
この声が自分に好きだと言ったのを覚えている。
繰りかえし、何度も。


「オレは……」


なにが言えただろう。
少なくとも、好きだとは言えなかった。
そんなふうに思ったことすらなかった。
そう。何度となく、抱かれていながら。
なるほど。他人の話なら、高嶺だって諒は弄ばれたのだと憤り、同情するだろう。


「ところで」


酔っ払い相手に話の収拾などつかないとわかっているにちがいない。
高嶺がアルコールで濁った頭で自嘲しているうちに、諒はあっさりと話をかえた。


「……まだ、なにかあるのか?」
「空耳のことてす。そこからストーカー談義になったんでしょう?」
「ああ……そんなこともあったな」
「心当たりは?」
「ない。安心しろよ。おまえの声じゃない」
「俺のストーカー疑惑は晴れるわけか。耳の聞こえが悪いとか、耳鳴りがするとかは?」
「ない」
「めまいとか吐き気とか」
「ないって」
「……本当に空耳なんですかね?」
「さあ」


それは、高嶺こそが聞きたい。
まさか本当にストーカーではないだろうし、身体のどこかに不具合があるとも思えない。
けれど、何故だろう。
ただの空耳だと、決めつけることができなかった。
たしかに、呼ばれている気がしてしかたがないのだ。
誰かに。
そして、それは。

「──おまえじゃない……」


呼んでいるのは、諒じゃない。
そのことが、不思議なほど高嶺に安寧をもたらした。


「高嶺?」


ゆるやかに眠りの淵へと落ちはじめた意識が、自分の名前を拾う。
眠りにおちていくときに、この声に名前を呼ばれるのが好きだった。
けれど、もう終わりにしなければ。
いまならばまだ、引きかえせる。
なにもなかったことにして、生きていける。
諒も。
自分も。


「あなたはいつも、逃げてばかりいる」


ひどく乾いた声は、けれど、もう高嶺には届かなかった。







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